タルヲシル

関西ワーキングマザーのえれなのブログです。食べることと春が好き。思いついたことをつらつらと書きます。

あたしおかあさんだから、だからなんなのかっていう考察。

おはようございます。

だいすけお兄さんに提供されたのぶみ氏の歌が今(色んな意味で)話題ですね。

私はだいすけお兄さんが好きなので、歌い手と曲の関係性については、一旦議論から置いておきます。

 

それでは、歌詞を経由して、この歌が世間になにを伝えたかったのか?

母親にどう受け取られたのか?それはなぜなのか?を考えてみたいと思います。

 

まずは音源を聞こうと思ったんですが、まだ聴けてないので、今後聞いてから感想が変わればまた書きます。

 

2/8追記:聞きました。↓

続・あたしおかあさんだからの音源を聞いてみた。 - タルヲシル

 

  • タイトルの違和感

さて、まずタイトルです。

あたしって主語のお母さんが世の中にどれくらいいるのか分かりませんが(わたし、じゃないのねっていう。ちょっと幼い主人公の印象を受けますね)

「あたしおかあさんだから」の、だから、の後はなんなのでしょうか。

 

歌詞に書いてあるといえば、そのままなのですが。

それなら、おかあさんになれてよかった。とかあなたにあえてよかった、というタイトルでもよかったはずです。

 

そこが一番の伝えたかったところではないということは。

この歌詞は、無償の愛(アガペー:agapē)ではなく、自己犠牲によってなりたつ母親の苦悩や、またその母親を尊敬しなさいというこどもへの無言の脅し、なのではないでしょうか。

 

  • 自己犠牲の人生を送る"あたし"のストーリー

母親になることで、諦めたあれこれ。

あなたは知らないだろうけど、私はこんなにあなたを思っているのに。

という報われていないという感情、下手すると旦那への恨みつらみに聞こえるのは、あながち間違ってないと思います。

 

もし、親としての愛を歌うなら、こどもの成長が見れて嬉しいとか、笑顔がかわいいとか、小さな手足とか、いくらでもキーワードはあったはず。

 

実在の人物にヒアリングしたならなおさら、おそらく質問の仕方から答えを想定してあった、元々方向性の決まった歌なのだと考えられます。

(作為的なアンケートとか見たことありませんか?選択肢がしぼってあるとか、聞き方がある方向に向くようにしてあるとか、そもそも聞く人の母集団が偏ってるとか、です。)

 

これを、世の中のお母さんの声です、と発表されたら、困ったり同意できなかったり怒りを覚える人がいるでしょうね。

私はまた某オムツのCMと似たアプローチだなあと思いました。

 

  •  自分の子育てに納得しているか?

また、この歌詞を若い人が聞いて、じゃあ私もぼくもいつかはこどもをもって、ともに生きる喜びを感じたいんだ!と受け取るか??

どうでしょう。

ぜひ思春期真っ只中の中学生に聞かせたい。

 

きっと、うるせーばばあ!!おしつけんな!こちとら育ててくれだなんて一度も頼んだ覚えねーよ!と一蹴されるんではないでしょうか(笑)

 

それを選ぶのもその人の人生。

こどもに、あなたのために、わたしはこれだけ犠牲にしたのよ、と言われて本当にこどもは喜ぶのでしょうか。

これは、"あたし"が、これでよかったのだと納得するための歌詞なのでは。

自発的にそれをしているはずなのに、なぜそんなに見返りが欲してしまうのか。

 

私も母に同じように言われたら、じゃああなたの人生ってなんだったの?って言いそうになる。

子育て本当にしたかったの?

こんなはずじゃなかったってこと?

子育てはしたかったけど、やりたかったことができなくて納得いかなかったの?

どうなの?っていう。

 

子育ては誰にも褒められない。

頑張ったね、えらいね、っていわれる回数よりも、こうした方がいいんじゃない?とか、それって大丈夫なの?って意見されることの方が多いもの。

それでも、自信を持って私はこうだから!と言えるひとはどれくらいいるのだろう。

 

  •  おかあさんという共通化された虚像

反論の渦の中にあった、キーワードのうちいくつかをピックアップすると、

おかあさんだから、とか。

おかあさんだけど、とか。

おとうさんなのに、とか。

 

これが議論になっているのは、前提として、おとうさんやおかあさんに対するステレオタイプや固定化された概念があることだと思う。

そうでないと、反論にならない。

 

この歌詞にムッとするひとも、涙してしまうひとにも、どこか一般的と呼ばれる共通の意識があって、そこからの肯定(だから)、否定(だけど、なのに)、意見なのでしょう。

 

それは一部の人が言及しているように、自他からの呪いともいえる、親とは、母とは、父とはかくあるべきという像です。

 

そこに、自分自身のできていること、できていないこと、いわゆる理想と現実のギャップが生じている。

既存の概念にうんざりしていたり、今の自分に納得いっていない場合は、歌詞がすんなり入ってこず、拒否感に繋がるのだと考えます。

 

私は、かくあるべきは理想とは呼ばずに、虚像だと思います。

そんなあれもこれも完璧なひと、だれもなれないよ。

 

法律上、親にこどもの養育義務はあれども、自己犠牲せよとは書いておらず、制度の問題ではない。

となると、やはり文化的側面。

日本独特の、母親とはこども(一家の後継)にすべてを捧げよ、我慢せよという縛りが、現代人にも残っている可能性があります。

 

ここまで述べて、今、あらためて、歌詞を見てみると、結婚する前後の女性にも思えるんです。

 

ここからは、私の想像だが、忙しい彼に尽くすタイプのいわゆる良妻のイメージ。

それがいつかこどもが生まれて、良妻賢母になろうとして、日々を忙しく過ごす。

ただ、ある日の夕方ふと、だれかにここにいるのよって、見つけてほしくて、私を見てほしい、この毎日の頑張りを褒めてほしいって、そういう姿。

 

その毎日にパンパンになったひとりぼっちさの中、目の前にある小さな命が大事でしょう?それを失うことは考えられないでしょう?今が幸せでしょう?と、一種の脅しや一瞬のなぐさめに聞こえるのではないでしょうか。

 

安易な説得ですね。

 

  • おかあさんだから、の証明

わたしは、おかあさんは、自分自身を示すものではなく、あくまで人生を進むうちのひとつの役割なのだと思います。

学級委員とか、いきものがかりとか、掃除当番とかのそういう役割。

だから、その役割を降りるときがあったっていいわけです。

 

たとえば、歌詞の中で論理の証明をしてみると

命題は

「母親は、苦手なお料理を頑張る。」

逆は

「苦手なお料理を頑張るのは、母親だ」

裏は

「母親でないので、苦手なお料理を頑張らない」

対偶は

「苦手なお料理を頑張らないのは、母親ではない。」

 

どうでしょう。

対偶だと受け取るメッセージが変わってきませんか?

でも言っていることは同じです。

 

つまり、この曲は頑張る母親を歌っているようだが、実際は歌詞に当てはまらない母親を否定していると受け取れるということです。

 

たとえば、どこかに一文でも、そうじゃない母親像を肯定してたらよかったんですが。

それでもたまにはサボってもいいよねとか、内緒だよとか、逃げ道があればね。

袋小路で逃げ場所ないからね。

残念ですね。

 

わたしたちは、おかあさんである前に人間です。

 

わたしにんげんだから。

呪いから解放されて笑って生きたいんです。

 

以上。